鈴木敏夫『ジブリ汗まみれ』とコロナ
ウイルスとの共生
コロナウイルスによって人々が生産活動を止めたことで、自然環境が改善しているというニュースを見た。
それから、『感染症と文明』の著者である長崎大学の山本教授や、分子生物学者の福岡伸一教授などが語る、感染症との共生に関する話を読んでから、ふと宮崎駿監督はどんな風にこの情勢を眺めているのだろうと思った。
ウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。
世界中でウイルスを「敵」と表現されるなかで、しかし、ほんとうに「敵」という風に二元論的に切り分けることが正しいのだろうか、と正直疑問に思う。
ウイルスを撲滅する、という考えの先には、何か大きな過ちが待っているような気がする。
すでに存在し、人類とも長い年月をかけて共生してきたものを、人類の不都合ゆえに部分的に切り分ける、あるいは敵視して完全に排除する、というのは、より悲惨な問題に繋がっていくように思うのだ。
コロナウイルスとの闘い 「戦争」ではなく「共生」を 長崎大学 山本太郎教授
<新型コロナ>都市封鎖しないスウェーデン 「集団免疫、来月にかけ獲得」
そして、敵と味方、という二元論では切り分けられない人間と自然の関係性をずっと描いてきたのが、宮崎作品だと思う。
特に『風の谷のナウシカ』では、「腐海」という象徴的な存在が出てくる。
風の谷の民は、腐海の拡大を阻止するわけではなく、「腐海に手を出してはならぬ」と言い伝えて、自分たちの生活範囲に入ってきた腐海の菌だけを撲滅しようと尽力します。一方トルメキアは、腐海を焼き払おうとします。すべて人間の手でコントロールしようと言うように。
これは自然界に備わっている「回復」というものが、人間界からすると「悪」に見えるということを示唆している。
あるいは、一見「悪」に見えるものも、自然界にとって不可欠な作用や要素、回復の過程であるとも言えるかもしれない。
そして、それは熱や下痢といった「症状」が、体にとっての「回復」の一環であることとも繋がっている。
鈴木敏夫さんのラジオ
現在、宮崎駿監督は最新作の映画『君たちはどう生きるか』の製作中で、今年に公開予定という報道もあったが、映画の進捗度合いも、宮崎監督の体調も気になる。
宮崎監督の意見や様子も聴けるかな、と思い、ジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『ジブリ汗まみれ』を聴いた。
結局、宮崎監督の話は出なかったが、番組のなかで色々と面白い話も聴けたので簡単に紹介したいと思う。
たとえば、世界的に流行し、5億人が感染、数千万人が亡くなったと言われるスペインかぜ。
これは1918年から1920年に起こったインフルエンザで、このときも米国で映画などが観られなくなったものの、翌年、我慢したぶん爆発したのか、映画館は米国映画史に残るほどの大盛況だったそうだ。
また、現在の自粛が続く状況に対し、鈴木さんが、昭和天皇の崩御のときのことを重ねていた。
僕自身はそのときの空気感は知らないが、鈴木さん曰く、半年以上の自粛が続いたと言う。火が消えたような重たい日々が延々続き、テレビからは娯楽番組が消え、CMも入らなかったそうだ。
どんな雰囲気だったか綴った文章を探すと、こんな風な記事もあった。
思い返せばあの年の自粛ムードは異常だった。あれは東日本大震災の後に訪れた街の静けさを遥かに上回っていた。日本中が死んだのではないか…..本気でそう思った。
直接コロナに関することというより、コロナによる自粛の影響下で、映画がどうなるのか、というのが主題の内容だった(二週目も放送後追記)。
【TOKYO FMを始めJFN38局でこの後23時からOA】#TokyoFM #ジブリ #コロナ 今週と来週2週のテーマは『コロナと映画』。現在コロナウィルスの影響により多くの人が不要不急の外出を控え、コンサートやイベント、エンタメ界も自粛。そんな中で今回は「映画」に焦点を当てて現状と未来について語ります。
— ジブリ汗まみれ (@renga_ya) 2020年4月19日
ちなみに、コロナについては、ある医師が綴った『人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える』や、辻仁成さんの日記『滞仏日記「哲学者が語った、コロナとの驚くべき向き合い方」』も、死生観を今一度見直すきっかけとなる記事だと思う。
