長逝と夭折の意味
オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』という岩波文庫の本がある。
これはドイツの哲学者のヘリゲルが、戦前、日本に講師に来ていた際に弓術家の阿波研造に弓を学び、そのときの経験などを帰国後に語った講演録である。
合理主義的な西洋人が、日本の文化を体得していくまでの苦悩や東西の世界観の違いが垣間見え、日本語の翻訳も読みやすく、とても面白い一冊となっている。

さて、この本の後半部には、ヘリゲルに阿波先生を紹介し、通訳も務めた小町谷操三のエッセイ「ヘリゲル君と弓」が掲載されているが、その一節で、阿波研造が長逝する、という旨の記述がある。
先生が昭和十四年三月一日に六十歳で長逝せられた時には、さっそくそのことをヘリゲル君に知らせてやったところ、非常にがっかりしたと言って、長い手紙をよこし、日本が偉大な弓道師範を失ったことを、衷心から残念に思う、御遺族にくれぐれも宜しく伝言を頼むと言ってよこした。
出典 : オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(巻末のエッセイ)
長逝、という言葉を初めて知った。
最初読んだときは、「長逝」というのは、長生きした、という意味合いがあるのだろう、当時は六十歳でも長生きだったのか、と思ったが、調べてみると、「長逝」とは、普通に「永眠」を意味し、特に長生きのニュアンスは含まれていなかった。
同じような勘違いをしているひとは他にもいた。
私は、「長逝」の「長」は「長生き」のことで、「長逝」とは、高齢になってから亡くなることだとばかり思っていたもので、「いくら明治時代でも、四十一歳で亡くなったかたを長逝というのは、おかしいのではないか」と疑問に思ったのだ。
そこで広辞苑をひいてみると、「長逝」は、永久に逝いてかえらぬこと。死ぬこと。永眠。と書いてあり、どうやら、年齢とは関係がないのらしい。
特に、年齢がいくつ以上で亡くなったから長逝と言う、というわけではなく、故人への敬意を持って使われるようだ。
類語として「逝去」という言葉がある。
これはときおり目にする言葉だ。使い方としては、たとえば「逝去」の場合は、「他人の死の尊敬語」のため、身内には使えないようだ。
身内に使う場合は、急逝や死去、永眠、他界、亡くなる、といった言葉が使われる(参照 : 「逝去」は身内に使っていい?逝去の意味と使い方)。
恐らく、長逝も、身内には使わない、というのが一般的な使い方だと思われる。
藪内清先生のご長逝(『天界』掲載)
ちなみに、僕が長逝を長生きしたひとが亡くなった際に使うものと勘違いした理由としては、夭折という若死にや短命を意味する言葉がある、ということも挙げられる。
よく詩人の中原中也などを「夭折の天才詩人」と表現するが、音の響きに引きづられ、てっきり「長逝」は「夭折」の対義語なのだと早とちりしてしまった。
