作家志望の人にもおすすめのサリンジャーの伝記映画『ライ麦畑の反逆児』
*文中に内容のネタバレを含む。
サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
米国の作家J・D・サリンジャーの代表作と言えば、一九五一年に出版された『ライ麦畑でつかまえて』が挙げられる。
このタイトルは、野崎孝訳の有名な邦題で、原題は『The Catcher in the Rye』である。
ただ、本来この英題を正確に翻訳すると、「つかまえて」というお願いではなく、ライ麦畑で捕まえるひととなる。
そのため、近年、村上春樹さんが翻訳した同小説のタイトルは、原題をそのまま使った『キャッチャー・イン・ザ・ライ』となっている。
この小説は、ビートルズのジョン・レノンを射殺した犯人であるチャップマンがのめり込み、犯行時に持っていたことでも知られている。
物語は、主人公のホールデン・コールフィールドが、病院で療養中に昨年のクリスマスの出来事を語る、という形式で話が展開される。

ホールデンの青年期に渦巻く大人の世界に対する苛立ちと、無垢の世界への憧れ、そして何者でもない自分。
そのはざまで引き裂かれるように毒を吐きつづけ、また幾度も泣きそうになる、思春期の叫びの物語でもある。
小説のタイトルは、ホールデンが、無垢の象徴として描かれる妹のフィービーに「あなたは世の中の全てが気に入らないだけ」と言われたときに、「違う、僕がしたいことはライ麦畑のつかまえ役になることなんだ」と吐露するシーンに由来する。
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない──誰もって大人はだよ──僕のほかにはね。
で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。
そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
出典 : J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
僕がこの小説と出会ったのは二十代前半の頃、友人に勧められ、最初に読んだのは、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』だった。
その後、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のほうも読んだ。
詳細な比較は、色々なサイトで行われているだろうから、雰囲気は明確に違い、どちらの翻訳のよさもある。
野崎訳の『ライ麦畑でつかまえて』の少年感むき出しの文体も、思春期の感情がより直接的に表現されている。
その野崎役が「ホールデンの語り口」としてインプットされている影響もあり、村上春樹訳の整った文体に、最初は違和感を抱くかもしれない。
しかし、村上春樹訳の少し距離のある言葉遣いだからこそ、ホールデンの奥に隠れた叫びが、いっそう強く聴こえてくるようにも思える。
この辺りは、もう完全に好みの問題だと思う。

このホールデンの生みの親で、伝説的な作家として知られるJ・D・サリンジャーの伝記映画として、『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』がある。
サリンジャーは、一九一九年に米国のニューヨークで生まれ、二〇一〇年に亡くなる。
結構昔の古典作家のような印象も抱きがちだが、意外と最近の作家である。
サリンジャーの一体どこが伝説的かと言うと、一九五一年に米国で出版された代表作『ライ麦畑でつかまえて』の他、『ナインストーリーズ』や『フラニーとズーイ』など数作を残し、以降は、表舞台から姿を消して隠遁生活に入ったのである。
晩年は一切作品も公表せず、二メートルの屏の向こうの屋敷で閉じこもるように生活していた(彼が暮らしていたニューハンプシャー州の小さな町では、住人たちとの交流もあったようだ)。
また、公表はしなかったものの、未発表の作品を一人黙々と書き続けていたことも分かっている。
サリンジャーが閉じこもった理由としては、戦争の従軍経験から神経衰弱になったこと、また、『The Catcher in the Rye』が、アメリカの若者を中心に爆発的な人気を得た結果、サリンジャー自身が静かな環境で生活することができず、どんどん人間不信になっていったことなどが挙げられる。
彼が東洋思想に救いを求めたという話は聞いたことがあったが、その辺りも映画のなかで描かれ、瞑想を行なっているシーンが登場する。
伝記については、以前サリンジャーの娘が書いた回想録『我が父 サリンジャー』を読んだことがあり、確か父のことを酷評していた記憶がある。
この伝記映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』の原題は『REBEL IN THE RYE』のみなので、副題の“ひとりぼっちのサリンジャー”は日本語版でつけたものなのだろう。
映画は、サリンジャーの視点に立って描かれ、彼の葛藤と苦悩が伝わってくる。「書くことは僕の祈り」というサリンジャーの台詞も沁みる。作中では、サリンジャーの隠遁生活のことではなく、そこに至る過程が実話をもとに描かれる(原作は、伝記『サリンジャー 生涯91年の真実』)。
コロンビア大学で創作講座を学んだことや、恩師バーネットとの出会い、初めて受け取った二十五ドルの原稿料、恋人ウーナがチャールズ・チャップリンと結婚してしまったこと、太平洋戦争での入隊と派兵、結婚と離婚、出版と成功、狂信的なファンたちの訪問に怯える日々、そして瞑想と隠遁。
ラストシーンも素晴らしかった。
映画を観るのは、『ライ麦畑をつかまえて』を読んだあとのほうがいいと思う。
小説にあるシーンと似たシーンが映画でもサリンジャーの経験したこととして描かれるし、ホールデンはサリンジャーの自伝的な要素も備えた分身でもあるので、ホールデンが、あのあとどうなったのだろうか、というのが、そのままサリンジャー自身の結末とも通ずるものがある気がする。
また、恩師のウィット・バーネットのコロンビア大学の創作講義のやりとりは、そのまま講義として楽しむことができるし、学生サリンジャーとの皮肉合戦も面白かった。
バーネット役の俳優ケヴィン・スペイシーの優しさと知性と、後半の哀愁漂う演技が抜群によかった。
ウィット・バーネット役ケヴィン・スペイシーの演技
サリンジャーの伝記映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』の登場人物のうち、重要な役割を果たすのが、サリンジャーの才能を見出した恩師でもある、ケヴィン・スペイシー演じるウィット・バーネットだ。
バーネットは、コロンビア大学の創作講座の講師で、自ら創刊した文芸誌『ストーリー』の編集長も務める。
この『ストーリー』は、一九四〇年代アメリカの重要な雑誌の一つで、主要作家の最初期の作品を出版している。
サリンジャーも、彼の講座を受け、また自身にとって初の原稿料二十五ドルを受け取る作品『若者たち』を掲載したのも『ストーリー』だった。
映画に出てくるウィット・バーネットは、とても魅力的な人物で、書くことに対する情熱があり、知性とユーモア、愛情と厳しさを兼ね備えている。
サリンジャーが、授業中、バーネットに皮肉を飛ばすと、バーネットはすぐに皮肉で返し、生徒たちを笑わせる。この応酬も面白く、またサリンジャーがカフェにいるバーネットを探し、直接質問をすると丁寧に答え、その後の授業では、サリンジャーの質問に関する講義も行った。
そして、サリンジャーが『ストーリー』に自分の作品を載せて欲しいとお願いした際には、内心ではすぐに掲載を決めていても、いったんは不採用と伝え、サリンジャーが不採用に耐えながらも書き続けられるかどうかを見守った。
精肉やチーズの業界で成功を収めた実業家の父親に、自身の夢や才能を否定され、抑圧されてきたサリンジャーにとって、優しく、また、欠点は欠点として指摘し、導き手となるバーネットは、父親のような存在だった。
序盤のほうで、バーネットの創作講座のシーンが続くが、講座ではバーネットの魅力的な人物像が描かれ、また純粋に「書くこと」の講義としても惹き込まれる内容となっている。
たとえば、作家の独自性には、その作家の声が必要だが、声は物語にならなければいけず、声が物語を邪魔してはいけない、とバーネットは語る。もし、声が物語を圧倒してしまうようなら、それは単なるエゴの表現になり、読者は置き去りになる。
声を重んじつつ、抑え、物語にすること。
授業の課題として、生徒たちに五ページの物語を書いてくるようにバーネットは言う。その際に意識することは、「単調に朗読されたとしても、読者を惹きつけることができるか」と告げる。
また、サリンジャーの『ストーリー』掲載を断ったときには、作家にとって二番目に大事なことは、「不採用に耐えること」と彼に語り、その後、別の雑誌『ニューヨーカー』から不採用通知をもらったときにも、「初の不採用通知か、額に入れて飾れ」「作家の仕事は、“次を書く”、そしてまた“次を書く”、また“次を書く”」と鼓舞する。
サリンジャーが、「向いていないかも」と弱音を吐くと、バーネットは彼に「作家」になる覚悟を問う。
以下は、映画に登場するバーネットの台詞であり、この台詞が映画のラストに繋がっていく。
一生、不採用で終わるかもしれない。自分に問うてみろ。君に生涯を賭して物語を語る意志はあるか。何も見返りが得られなくても。
出典 :『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』
こうして作家サリンジャーの生みの親と言ってもいい存在だったバーネットだが、後に、バーネットとサリンジャーは袂を分かつこととなる。
サリンジャーが戦地に派遣され、無事帰還した際、サリンジャーの選集が出版されるはずだったのが、一転困難になった。バーネットの会社の提携先が出版を拒否してきたと、バーネットはサリンジャーに説明するが、サリンジャーは納得しない。
このときすでに悲惨な戦争体験から神経衰弱に陥っていたサリンジャーは、バーネットの一言一言や態度が気に障り、激怒して彼のもとを去る。
そして、以来、長く彼を許さない。バーネットは、サリンジャーのことを思って必死に出版にこぎつけようとしたにも関わらず、なぜそれほどまでにサリンジャーはバーネットを恨むのだろうか。もしかしたら、それは彼が父親に近い存在だったからなのかもしれない。
バーネットという人物の人柄も魅力的だが、演じたケヴィン・スペイシーが、また抜群によかった。この世界を生きていた。
©️ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー
前半の厳格できりっとし、かつユーモアに溢れたバーネットと、後半の経営が傾き、サリンジャーの許しも得られず弱気になっている少し老いたバーネット。
その両方が矛盾なく演じられ、彼の声と存在感とが、この実話をもとにした伝記映画を、いっそうリアリティを持った世界に仕立てていた。
作家志望の人だけでなく、表現者を目指すあらゆる人にとって、おすすめしたい映画である。
作品情報
監督 | ダニー・ストロング |
脚本 | ダニー・ストロング |
メインキャスト | サリンジャー(ニコラス・ホルト)、ウーナ・オニール(ゾーイ・ドゥイッチ)、ウィット・バーネット(ケヴィン・スペイシー) |
公開 | 二〇一七年(アメリカ)、二〇一九年(日本) 上映時間 : 一時間四十六分 |
製作国 | アメリカ |
『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』予告編
