雑学

村上春樹の食事と、おすすめの旅エッセイ

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村上春樹の食事と、おすすめの旅エッセイ

作家や芸術家というと、大酒飲みであったり女遊びに明け暮れたりといった奔放で破天荒な印象を持たれることも少なくない。

酒と喧嘩を繰り返しながら詩作をして早くに死んだり、生きることに苦しみあえぎながら、最後は心中したりと、繊細で気難しく振れ幅の激しい性格を思い描く。

一方、小説家の村上春樹さんは、こうした作家の紋切り型のイメージに抗うような、ある一つの信条を持っている。

それが「健康」である。

健康と作家、というのは、特に村上春樹作品の少し病んだ世界観とはかけ離れているようにも見える。

それでも、村上さんは、食事や運動、睡眠といった日々の生活に根ざした「健康」を、作家にとって欠かせない大事な要素として捉えている。

村上さんの生活は規則正しく、お酒の分量も決して多くはない。夜は早めに床につき、朝は夜明け前に起床するなど、早寝早起きのルーティンを徹底している。

一日の大まかなスケジュールとしては、起床時間が朝の4時頃、執筆は午前中を中心に、4、5時間。このとき書く分量は決まっているそうで、原稿用紙10枚程度。もっと書けそうでも、量はこの程度でやめると言う。

その後、泳ぐことやランニングなど運動を行い、昼以降は、30分くらいの昼寝をしたり、音楽を聴いたり、読書をしたり、料理をしたりと自由に過ごし、夜は9時に眠る。

この「走ること」に関しては、一冊の本を書き上げるほどの、「書くこと」に共通する熱意と哲学を持っている。

ランニングの哲学について書かれた村上春樹さんのエッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』では、次のように綴っている。

忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。

走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。

僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。

出典 : 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

こうした考え方は、かつてイチローさんが言っていた、「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」という言葉にも通じるものがあるだろう。

ルーティンを重んじ、こつこつと着実に歩みを進めていくことの大切さを教えてくれる。

それでは、一体なぜ村上さんは、これほど「健康」を大切にするようになったのだろうか。

実は、必ずしも昔からそうだったというわけではなかったようだ。

まだ、「村上春樹」という作家が誕生する前のこと、村上さんが20代の頃は、ジャズ喫茶を経営していたという事情もあって、早寝早起きの生活など送れるはずもなく、村上さんの生活リズムは不規則なものだった。

しかし、小説家としてデビューを果たした30歳を過ぎた頃から、健康に関するスタンスががらりと変わった、と村上さんは自身のエッセイで書いている。

健康に関してもっとも重要な要素の一つである「日々の食生活」についても、過去に読者の質問に応じる形で具体的に次のように答えている。

うちはとにかく野菜と魚が中心です。とくに野菜をたくさん食べます。たまに肉を食べます。ご飯は酵素玄米を食べています。

調味料はできるだけ自然素材を使っています。そして腹七分目くらいを量の目安にしています。寝る前の三時間には何も食べないように心がけています。

出典 : 村上春樹『村上さんのところ』

食事は野菜が中心で、ベジタリアンというわけではなく、肉もときどき食べる。また主食には栄養価の豊富な玄米を採り入れている。

調味料もこだわりを持ち、食べる量は腹七分目。飽食の時代には、断食や少食のほうが体調が整うという話もあるが、その辺りをしっかり実践している(長く継続的に活躍する芸能人には、タモリさんや明石家さんまさん、漫画家の荒木飛呂彦さんなど、一日一食や少食という人も少なくない)。

こうした健康に対する意識の高さは、作品でもしばしば登場する「まともな食事」といった言葉にも現れている。

長編小説『ダンス・ダンス・ダンス』の一節では、「文化的雪かき」に従事するフリーライターの主人公が、「食生活」に言及するシーンがある。

「ちゃんと御飯は食べてる?」と僕は聞いてみた。

「食べてるわよ、何だと思ってるのよ? 食べなきゃ死んじゃうでしょう?」

「”ちゃんとしたもの”を食べてるかって訊いてるんだよ」

ユキは咳払いした。「ケンタッキー・フライドチキンやらマクドナルドやらデイリー・クイーンやら、そういうの。あとはホカホカ弁当」

ジャンクフード。

「五時に迎えに行くよ」と僕は言った。「何かまともなものを食べに行こう。それは食生活としてはあまりにもひどすぎる」

出典 : 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』

村上さんは、創作に対する「健康」の重要性について、肉体的な健康は、自らの〈闇〉に触れるときに不可欠なものだと、インタビューやエッセイなどで繰り返し主張している。

真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。

出典 : 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

肉体的な健康を疎かにし、無防備のまま心の奥深くの「闇」に触れようとすれば、逆にその手を掴まれ、「闇」に引きずり込まれる危険性がある、というのが村上さんが健康を重んじる理由なのだろう。

それは、哲学者のニーチェの言葉を思い起こさせる。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

出典 : フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

芸術家でなくとも、狂気自体は誰もが内面に秘めている。「人はみんな病んでいる」と村上さんは言う。

ただ、狂人と芸術家の違いにおいて肝心なことは、その狂気の泉から、適切に一雫の作品を汲みだしてくる、という点にある。そのために、「健康」は必要なのだ。

村上さんの語る「健康」というのは、本質的なこと、極めてシンプルな哲学を指している。

それは、「まともな生活」を送り、「まともな食事」をすること。

もしかしたら、村上春樹という作家は、その幻想的な作品世界によって精神性の深みを表現するとともに、自身の「書くこと」と向き合う姿勢によっても、このまばゆい光に満ち、背後で闇の増幅していく「不健康」な世界の潮流に、ほんの少しでも抗いたいと思っているのかもしれない。

村上春樹の旅エッセイ

小説家として世界的な知名度を誇る村上春樹さん。同時に、エッセイの名手としても知られ、旅行記のような形式で綴られる旅エッセイが、とても面白い。

村上さんの旅エッセイのなかで有名な一冊が『辺境・近境』で、世界の辺境や近境(故郷の神戸)を回ったときの紀行文が綴られている。

たとえば、村上春樹さんが1992年7月に旅をしたのが、メキシコ(「メキシコ大旅行」)である。

個人的には、メキシコというと、ほとんどあやふやな先入観やイメージのみで、街もメキシコシティくらいしか聞いたことがなかった。

この旅エッセイでは、ブエルト・バヤルタや、アカプルコ、オアハカなど、初めて目にする地名ばかりが登場する。

画像 : 村上春樹『辺境・近境』

聞いたことのない名前がたくさん登場するので、地名自体はなかなか覚えられないものの、細部の描写がしっかりし、村上さん個人の感想や、見た景色も描かれているので、知らない土地の話でも非常に読みやすくなっている。

村上春樹の小説は苦手だ、という人にも、旅エッセイならおすすめできると思う。

村上さんは、メキシコ旅行の前半を一人バスに揺られ、途中、カメラマンの松村映三さんと、村上春樹作品の翻訳者のアルフレッド・バーンバウムさんと合流する。

このメキシコ旅行記は、『マザー・ネイチャーズ』という雑誌に掲載されたそうだ。

面白かったのは、冒頭の文章、旅行中にメキシコ人と話した際、しばしば問われるという質問の話である。

一ヶ月ばかりメキシコを旅行しているあいだに、そこで出会った何人かの人々から「あなたはどうしてまたメキシコに来たんですか?」という質問を受けた。そしてそのたびに僕は軽い混乱を経験することになった。

その質問には〈他の国ではなくて、なんでわざわざメキシコを旅行の地として選んだのですか〉というニュアンスが含まれているように感じられたからだ。

出典 : 村上春樹『辺境・近境』

こんな質問は、過去ギリシャでも、トルコでも、ドイツでもなかったと言う。

それぞれの国の人々は、誰かが自分たちの国に旅行に訪れることは、ある種当然のこととして受け止めているようだった、と。

そして、その考え方は、まっとうなことのように思える、と村上さんは書く。

旅行者は旅行をし、どこかの国を訪れる。その国が、自分たちの住んでいる国でも、特段の不思議はない。

しかし、メキシコ人は、「いったいなぜ、メキシコを訪れたのか」ということが気になるようだ。

この件について、村上さんは、旅行前にアメリカ人のジャーナリストにアドバイスを受けたと言う。

もしメキシコ人に、どういう理由でメキシコをそんなに長く旅行しているのだ、と訊かれたら、メキシコ料理に関する本を書こうとしているんだ、と答えるといい。「それが彼らが納得する唯一の理由だ」

ただし、この料理をメキシコ旅行の理由に挙げると、一つだけ問題が発生するそうだ。

彼らがメキシコ料理について一度話し出すと、永遠に止まらず、特に「おっかさんの自慢の家庭料理」の話が続く、と村上さんは書いている。

また、村上さんが旅行中、バスのなかで延々メキシコの歌謡曲が流れ続けたことに辟易した、という描写もあることから、メキシコ人が、「なぜメキシコへ旅行に?」と疑問は持っても、彼らが決して、自分たちの文化が好きではない、というわけではないようだ。

行ったことがない、そして、たぶんこの先も行くことがない旅先の話は、ほとんど小説の世界と変わらない不思議な物語のようでもある。

他にも、村上春樹さんの旅エッセイでは、『遠い太鼓』や『ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集』などもある。

ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきたのだ。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。── その音にさそわれて僕はギリシャ・イタリアへ長い旅に出る。1986年秋から1989年秋まで3年間をつづる新しいかたちの旅行記。

出典 : 村上春樹『遠い太鼓』

旅エッセイとしては、『遠い太鼓』もだいぶ面白く、リラックスして読めるおすすめの一冊である。

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