名言

坂口安吾『堕落論』のあらすじと名言

当サイトは、アフィリエイト広告を利用しています。

坂口安吾『堕落論』のあらすじと名言

堕落論とは

坂口安吾は、1906年に生まれ、1955年に亡くなった作家で、著書の『堕落論』は、戦後まもなく執筆され、人間の本性としての「堕落」を論じた、代表作の一つとして知られる随筆である。

しかし、代表作と言ってもこの『堕落論』は決して長文の大作というわけではなく、文章自体は短いものの、重たく濃厚な文章となっている。

冒頭では、美しいものは美しいままで終わらせたいという人の心情があるとして、心中した若い学生の話に触れる。

まだ純粋な間柄のうちに、若い男女が心中したという事件に、世の中の同情は大きかったと語る。

また、坂口安吾自身、執筆当時、数年前に姪が自殺したと言う。

姪は二十一歳で、安吾曰く、「一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせる」女だった。

私自身も、数年前に、私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚せいそな娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様まっさかさまに地獄へちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。

出典 : 坂口安吾『堕落論』

この先地獄へ堕ちていくような一生を送ることになるのがよいか。それとも、美しいうちに死んでしまうのがよいのか、というのが、『堕落論』の一つの論点でもある。

そして、戦争中の日本や天皇制など政治的な話にも触れながら、再び、一瞬だけ話題が姪に戻ってくる。

まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどとねがうことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄にちて暗黒の荒野をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる荒野の流浪であるが、それにもかかわらず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。

未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落りんらく自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。

出典 : 坂口安吾『堕落論』

現代社会なら、不謹慎と大批判、大炎上を受けそうな内容かもしれない。

数年前に自殺した姪が、美しいままで死んでよかったと書き、それから、それも小さな人情で、自殺などせず、生きて地獄に堕ち、暗黒の広野をさまようことを願うべきか、と問う。

色々なことが見えてしまうからこそ、普通の幸せを願うことができずに、その二択が差し迫ってくるのかもしれない。

結論として、どういう風に生きるべきか、ということは、そのまま原文を読んで感じ取ってもらうのがよいとして、安吾は、『堕落論』の最後に、「人間は生き、人間は堕ちる。」と書く。

戦争に負けたから堕ちるのでもなく、人間だから堕ちる。生きているから堕ちる。自分自身を救うためには、「正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。」と結ばれる。

人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如く日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

出典 : 坂口安吾『堕落論』

作中の名言

以下、好きな一節、印象的な一文として、坂口安吾の『堕落論』の名言や考えさせられる言葉を紹介したいと思う。

私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾しょういだんおののきながら、狂暴な破壊にはげしく亢奮こうふんしていたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。

私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。

堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫ほうまつのような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

堕落の平凡な足音、ただ打ちよせる波のようなその当然な足音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。

歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。

私はおののきながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。(…….)私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

出典 : 坂口安吾『堕落論』

人間は堕落する。生きていれば堕落する。たとえ、美しいままで死んでいきたいと若いうちの自死を選んだとしても、人間全体は生き続ける以上、堕落は避けられない。

自分自身を救うためには、正しく堕ちる道を堕ちきる必要がある、と坂口安吾は語る。

3+
ABOUT ME
uta
小さな町に住んでいるピエロです。