『ライ麦畑でつかまえて』でホールデンがいるのは精神病院か
サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』では、小説の流れ上、冒頭、主人公のホールデン・コールフィールドは、“病院らしき場所”にいる。
その病院らしき場所から、17歳のホールデンが、16歳のクリスマス前のときのことを回想する、という構成になっている。
一体なぜ、ホールデンが入院しているのか、その理由についてはそれほどはっきりとは明かされていない。ただ、一応、本人は煙草の吸いすぎによる結核が原因だと一瞬触れる。
その病院がどこにあるのか、どういった場所なのか、といったことに関しては、ハリウッドからそれほど遠くないうらびれた場所で、来月辺りには家に戻れる、とある。
DB(ホールデンの兄)は今ハリウッドに住んでいて、そこからこのうらぶれた場所までそんなに距離はないから、だいたいいつも週末になると僕を訪ねて来てくれる。来月あたりうちに戻るときには、車に一緒に乗っけてってくれるってことだ。
出典 : J・D・サリンジャー(村上春樹訳)『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
物語のラストで、その後、家に戻って何をしたか、どんな風に具合が悪くなったか、秋からどんな学校に行く予定か、そういう話をすることもできるが、今は気が乗らない、とホールデンが語っているように、この「うちに戻る」というのは、退院ということだったのだろう。
また、「どんな風に具合が悪くなったか」という表現から考えるに、単純に煙草が原因の結核、ということでもないように思える。
一体、ホールデンはどこにいるのか。定説としては、ホールデンがいる病院は、精神病院だろうと言われている。それは同じくラストで、精神分析医が一人ここにいる、と書いていることからも推測される。
ただ、ホールデンは、確かに大人の世界をインチキだと批判し、無垢に憧れ、少々感受性は豊かかもしれないし、嘘もよく言う。しかし、だからと言って、入院させられるほどの精神的な病のようには思えない。
また、こういう世界から脱却して、田舎で耳の聞こえないふりをしながらひっそり世捨て人のように暮らすんだ、という希望も語り、特に自殺願望なども見られない。
だから、ホールデンが精神病ゆえに入院している、というのも違うような気もする。
もちろん、かなり神経症的で、あちこちに攻撃的な感情を持っているのは間違いなく、きっと何かしらの病名もつけられると思う。しかし、大人が用意した「インチキ」に耐えられない、というのは、変というよりは、むしろ上手に麻痺させることができないという点で真っ当とも言える。
新訳を担当した、作家の村上春樹さんは、ほぼ間違いなく、ホールデンは精神病院にいると、翻訳家の柴田元幸さんとの対談本『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』のなかで語っている。
村上春樹さんの解釈では、正確には、精神病院というよりは療養ができる高級サナトリウムで、ホールデンの両親が、息子が精神を病んでいるということを世間的に知られたくないので表向き肺結核の療養と言い、東海岸ではなく遠くの西海岸のサナトリウムに入れたのではないか、と。
実際、『ライ麦畑でつかまえて』の作者であるサリンジャーも、戦争に行った影響で神経症になり、入院した過去がある。戦後、戻ってきて数年後の1950年に『ライ麦畑でつかまえて』を完成させているので、その辺りの神経症的な要素というのも如実に反映されているのだろう。
伝記映画『ライ麦畑の反逆児』でも、インタビューを受けるシーンでサリンジャーは自伝的な作品だと語っているし、ホールデンが小説のなかで夢として語っているような、ひっそりと誰も自分のことを知らない町で暮らす、というのも、サリンジャーが(皮肉にも『ライ麦畑でつかまえて』で一挙に知られるようになったために)実際に行うことになる。
だから、ホールデンがいる場所が、精神病院なのか、それともサナトリウムなのか(精神分析医が一人、というのは精神病院なら少ないような気がするので、サナトリウム的な療養施設の可能性が高いように思う)というのは、はっきりとは分からない。
ただ、サリンジャーと同様、ホールデンも神経症的な状態に追い詰められていたとは言えるのかもしれない。